North of Myanmar - Kachin |
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┃カチン州 ┃カチン州の紹介 カチン州はミャンマーの最北の州。北と南をインド、中国の国境、西をザガイン管区、東をシャン州に接している。主要な河、メリカ河、メイカ河、エーヤワディ河は北から南に流れており、カチン州の最も人口が少ない肥沃な谷で合流している。これらの谷間はヒマラヤ山脈の南端、国内最高峰の山々が連なる所である。 カチン州に住む殆どの人々がチベット−ビルマ族に属し、ジンポー、マル、ヨウイン、リスの4つの言語類に代表される。一般的にカチン民族として知られるジンポー民族が主を占めており文字表記 (19世紀のキリスト教団の考案にによってアルファベット標記が使われた ) をされることからジンポー語が共通言語として使われている。 現在、カチンの人々の多くは通常キリスト教徒か仏教徒だが、昔からの古い信仰が同時になされている。イギリス植民地時代と今日の政府統治下でより少なくなったが、カチン民族はグムラオ−グムサと呼ばれる独自の制度を行っている。このシステムの特質は家族の中で一番若いものが(年長者よりも)両親を亡くしたあと相続人となるなど、カチン族でしかみられないものだ。 1990年代までカチン独立組織(KIO)とその右腕であった KIA は州の至る所で比較的自由に活動していた。その後、1993 年にヤンゴン中央政府と休戦協定を結び反乱行動を中止した。しかし政府は現在でも政情不安な地域として、外国人、ミャンマー人の出入りを制限している。 宝石貿易も州内で旅行制限に何らかの影響を与えている。コンバウン王朝時代にカチン州の宝石約75%が中国に運ばれた。中国は現在でもミャンマーヒスイに関する最大の市場となっている。 ┃ Manaw Festival - マナオ祭り 伝統的にジンポーは動物の生贄を求める最高神カライカサンによって統括された精霊の世界を認知するアニミストである。ドゥワ(代々の族長)は特にマナオへの敬意を表する儀式や文化的な統率を維持する(ジンポーナッの神々を納める祭りが定期的に催される)。時と場所によってマナオは何種類かに分かれる。最も一般的なのは将来を見通し、作物の為の気候を保証し、厄病、厄災から守るスッマナオとそれとは反対に過去の栄光や成功を祝福するパダンマナオがある。 典型的なマナオは29頭の牛か水牛を28のジンポーナッ神に捧げ、1頭は全てに対して捧げる。参列者は2連の大太鼓、鐘、シンバル、水牛の角で出来たオーボエなどで音楽に合わせ踊る。これらの祭りはナッを最も魅了すると言われている色で彩られているマナオの柱(トーテムに赤、黒、白のラインを塗ってある)を中心に催される。踊り子は鳥の羽に似せた扇をもち、先頭の踊り子はサイチョウの頭とくちばしに似せたデザインの被り物をつける。他の踊り子は馬乗りや魚釣りや牛追いの真似をする。地酒のチュル(米の酒)を飲みシャッカダ(特別な食事)を振舞う。 1月10日はカチン州の日、カチン州内やその周辺からカチン民族のグループがミッチーナのマナオに集まる。 ┃Myitkyna - ミッチーナ 盆地に位置し乾季は暑く雨季には多雨のミッチーナ自体はそれほど興味深いところではない。しかしながら、旅行可能範囲が半径 25km以内に広げられてからは多くのカチン民族の村を訪れることの出来る出発点となっている。低地に暮らすカチン民族の男性は紺と緑のロンジ−をはき、山地の男性はズボンを履いている。女性は独特な赤と黒の被り物をつけているが、どの村でも訪れずにはいられないような結婚式や祭りなどのイベント用に最もカラフルなものを準備してある。カチン民族の結婚式では守護と物品の富を贈る象徴として銀の刀とショルダーバックを新郎が新婦に贈る。 ミッチーナが長く誇ってきたものとして、特に涼しい季節にローカルマーケットで入手可能な豊富な果物がある。パイナップル、ライチ、スイカ、スターアップル、マスタードオイルなどである。多彩な果物に加え山岳民族が中央市場で値段交渉しながら売買する光景が見られる。カッチョウ(この盆地で生産される米)はその精巧なきめ、よい香りが大変価値のあることからミャンマーで最良のものと考えられている。カッチョウはカチン州以外では珍しく高価である。旅行者に人気のある土産品は多くのビルマ民族の間で民主化賛成の象徴となりつつある紺と緑のカチンロンジーである。 スータウンピゼーディーはエーヤワディ河岸に位置する「願い事が叶う」仏塔である。それより大きいアンドーシン・パヤーは仏歯と仏足石が安置されている銀板の仏塔である。その他の宗教建造物はスリサラスワティ、グルカヒンドゥー寺院、ジャーメモスク、道教の中国寺院がある。 ミッチーナ市内、郊外に住んでいるカチン民族の殆が布教活動団体であり、現在市内には15の教会があるが殆が何人かのメソジスト教徒が混じったバプティストとカソリックの教会である。市内からおよそ14km北にある祈願の山はカチン民族とリス民族のバプティストの聖域であり修道院などが位置する。町には小さなネパール系住民のコミュニティーもある。 老年のカチン民族の多くは修道院で教育された為英語を話す。また退役軍人の中にはメリルの略奪や地方での様々な戦闘について語りたがるものもいる。 1994年にヨウンジー道路に建設されたカチン州文化博物館を訪れたものはまだ少ない。展示品はカチン民族衣装やタバコのパイプ、かご、漁獲網、織機、楽器などのシャンの工芸品などである。2階にはカムティロン(現在のプーターオ)に属する巻貝、箱、手製の大砲がある。表記の殆どはビルマ語る。開館時間10時-3時。月曜休館。入館料$2。 ┃Myitsone - ミッソン ミッソンはメーカ河とメリカ河の合流地点でミッチーナより北に43km、エーヤワディ河の出発点である。河が見渡せた政府のレストハウスは1960年代のカチン民族の反乱によって焼け崩れた。それに代わる新しいホテルの建築が数年前より計画されている。タクシーで片道1時間。 公式では入域禁止となっている場所はミッチーナより148km西にあるパーカンの宝石採掘場である。入域許可は必要であるが通常ミッチーナのホテルで取得可能。カマインまでの80kmは舗装道路であるがそれ以降は土道である。もし宝石購入のみに興味があるのならミッチーナに購入場所はたくさんある。カマインの西南は大きく澄み渡るインド ー ジー湖がある。 街の大抵のレストランで中華やカチン料理を食べる事が出来る。人気のあるお店としてお手頃な食事を提供してくれるシュエ アインシ 。パーカン宝石採掘場の経営者がオーナーで宝石商でに賑わっている。また、インドのグルカ家族が経営している チリレストラン もお勧め。 ┃Bhamo - バンモー ミッチーナの南 186kmに位置するバンモーに行ったことのある人は近年、より面白い場所であるという。デイリーマーケットには周辺村から集まったリス、カチン、シャン民族が出店している。古式のストゥーパ様式のテインドウジー・パヤー が街の中心にある。また街のお勧めレストランとしては、上品な中華料理店で セインセイン レストランがある。 ┃レドロード 第2次世界大戦時にインド軍とイギリス軍がインドのインパールからミャンマー国境のタム へ道路を建設した。それより北に「ビネガージョー」スティルウェル将軍率いるアメリカ軍がインドの北西の辺境の地レドからミャンマーの北西 ミッチーナへ430kmの道路を建設した。1944年でその費用は1億3700万ドルで明らかに世界で最高値の道路にランクされる、何故なら1944年に建設後数ヶ月使用されただけでその後は殆ど使用されていない。この道路のどちらも現在はおそらく密林に埋もれているだろう。 スティルウェル道路沿いにミャンマーをドライブしたティム・スレッサーの「初陸路」ではとても魅力的な記述がある。それには1956年オックスフォードとケンブリッジ大学の乗員の2台のランドローバーによるシンガポールからロンドンへの旅について書かれている。 彼らは最初で最後の陸路横断と1962年、ビルマ石油会社発行の「ビルマの道路」に載っている。ミッチーナからタナイの最初の190kmは「どんな気候でも運転可能」となっているが残りレドまでは4輪駆動車に加え「準備、根気、忍耐、運」が必要と書かれている。 ピンウールゥイン(メイミョ)、ラショー、バンモーを経由のマンダレーからミッチーナへの道は780kmで上記の道路案内によると通常運転可能である。モンユとバンモーを越えてすぐ中国国境での分かれ道がある。 イギリス−インド道路も同じ様に禁断の道路となっている。マンダレー−タム間はアマラプラ、ザガイン、シュエボー、イェウー、カレワを経由し 490kmである。シュエボーを後に93kmの地点から道路状態は急激に悪化し、(1962年の報告による)橋の無い川底を渡らなければならない。雨季には通行不可能である。時によってモンユワからカレワへ船で渡ることが可能とあるがこの様に最悪なポイントを避けなければいけない。タムのインド国境近くの道路は大変良い。 2000年の情報ではチン州ではグループツアーを制限し門戸を開いている。もしこのような事があれば個人旅行も可能となり、チンドゥイン河を経由しインド国境のタムへの旅行も可能となるであろう。外国人の国境越えはインド、ミャンマー政府間で未決裁事項である。インド人貿易商は往来許可の特権があり、それはモンユワの賑やかな町並みを見れば明らかである。 ┃Putao - プーターオ プーターオとその周辺は北回帰線の上に位置しており亜熱帯、広葉樹、常緑樹の森が2,000mまで、温帯、半落葉樹、広葉樹、多雨林が2,000-3,000mまで、針葉樹、亜高山帯、雪山の高山低木が 3,000m以上となっている。プーターオの北高地はアジア有数のヒマラヤ山脈の一帯となっており、外国人が入域可能となればエコツーリズムポイントとなるであろう。地元の人は周辺の峰をしばしば氷の山と呼ぶ。 プーターオは人口6,000人余りの小さくて絵に描いたような美しい町である。海抜402m。軍は基地近くに9ホールのゴルフ場をもっているように、ここでは大変存在感がある。中央市場では竹や木の手工芸品や地元生産の植物から採れる薬が売られている。日曜には多くは教会から市場へ、そして映画館に行く。最も興味深いものはマハムニ・パヤーの隣にある第2次世界大戦時の戦闘機の残骸プロペラで作られた鐘である。 最後のイギリス植民地時代にフォートハ−ツと呼ばれた駐屯地がプーターオにあった。第2次世界大戦終了時まで多くの欧米人はプーターオの代わりにこの呼び名を使った。今でもいくつかの古い地図には載っている。10,000人の人口の殆がカチン民族かリス民族でビルマ族、シャン族、他の少数民族が続く。 ┃Mt Hkakabo Razi - カカーボラージー山 5,889mの高さでその名前は年中雪を頂く山とされている。人工衛星がアドゥン谷のナンニルカ(4664m)とセインク谷のディプハ(4360m) を含む大山塊に隣接されている。秘境保存として周辺隣国より提案されている。
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