一家には住み込みのメイドがいた。

「北の方の少数民族の子なの、小学校も行っていないんだから。」

彼女にとってメイドはあくまで使用人。
私が市場で果物を買って帰りメイドにもわけようとすると、

「やめて、この子にはあげないで」
とピシャリ。

私は純日本人で核家族に生まれ育った。
妙なことに神経質で、物心つく頃から自分の洗濯物が、
家族の物と一緒に洗われるのが気持悪かった。
「だったら自分でやってちょうだい」という母親の言葉に安堵感さえおぼえて、
昼でも夜でも好きなときに自分のためだけにイソイソと洗濯機をまわした。
よって洗濯が面倒くさいという意識はまったくない。
誰かに任せることの出来る人のほうが不思議だし、
誰かのものを任せられても困ってしまう。
 
海外生活や旅行中、よほど水事情が悪い場所や、ヨーロッパのように水の節約のため各戸の洗濯曜日が決まっているなどの状況をのぞいては自分の洗濯は自分でする。

南仏で友人一家とすごしたとき、毎夏恒例の水不足にみまわれた。
「縮んでもいい物、色落ちが気にならない物は皆一緒に洗いますからね」の言葉に従い
大きな子供にでもなったような気分で友人に洗濯をお願いした。

だからヤンゴン滞在中に彼女が、
「ザジゴン、洗濯物だして」と言っても当然断った。
しかし彼女は怖い顔でこう言うのだ。

「あなた自分で洗濯なんてするの?よしてよ、そんなこと。
あなたは私のゲストなんだから。メイドにやらせてよ」

「私は自分の物を誰かに触られるのがイヤだし、
あなたのメイドにそんなことさせられない」
 
たった 13 歳のメイドは怒鳴りあう私たち二人に、恐れおののき小さい体をさらに小さくしていた。

(次回へ続く)

written by ザジゴン
 

 
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