|
▲ ▼ |
|
┃ピ ュ ー 族 と 、 仏 教
の 伝 来
ミャンマーには、太古から、人々が暮らしていたようであるが、周辺の国々の影響下に置かれていたに過ぎず、ようやく、8世紀頃から、ピュー族と言われる人々が点在して暮らし、次第に小国家を建設した頃から文化的な隆盛が訪れた。その名残は、ピィ郊外のフモーザー遺跡などで見る事が出来、サンスクリット語やピュー語で書かれた文化遺産を数多く見る事が出来る。
文化的には、この頃、上座仏教も伝来し、人々は城壁で囲まれた集落を作り上げ、周囲に水田を作り、稲作農業を発達させた。文字の文化を使い、各地の遺跡にその名残を残している。
国の基礎を作ったピュー族であったが、何詔王国などの侵略とビルマ族の移住により、国家を作る事無く滅亡した。 |
▲ ▼ |
|
┃
ビ ル マ 族 に よ る 国
家 統 一
9世紀中ごろ、中国の雲南から移住してきたビルマ族は、エーヤワディ川の流域に移り住み、ピュー族やその他の諸勢力を征服し、バガンの地に王朝を作り上げた。これがミャンマーの最初と呼ばれる統一国家バガン王朝の誕生です。今でもミャンマー最大の遺跡、観光地となっているバガンでその王朝の繁栄を垣間見ることが出来る。
勢力は拡大し、ミャンマー南部のモン族との抗争と接触によって文化的な影響を受け、ミャンマー全土に仏教や文字などの文化が広がり、その後300年ほど国は繁栄を極めた。
その後、過度の寺院建設により、国家は疲弊し、同時に中国の巨大国家、元からの圧力と各地の民族の勢力の巨大化と共に、4度の元からの侵略の後、1287年に隷属し、最後には1299年シャン族によって滅ぼされてしまった。 |
▲ ▼ |
|
┃
国 家 の 再 統 一
統一国家を失ったミャンマーはシャン族を中心に、各地の勢力により小国家が入れ替わり、一時的に国家を設けると言う状況が続いた。ザガインやインワはその王朝の名残である。
その後16世紀になって、勢力を盛り返したビルマ族が、タウングーに城塞を開き、ついに国家統一を果たす。その攻勢はミャンマー国内に留まらず、タイのチェンマイ、アユタヤ王朝を滅ぼし、ラオスのルアンプラバンやビエンチャンまでも勢力に入れ、東南アジアに一大王朝を成立させるに至った。
しかし、その国家が衰えるのも早く、間接統治制を取った地方では反乱が絶えず、群雄割拠に陥った。一度インワに再統一されたが、まもなく1752年にモン族などに滅ぼされた。モン族はバゴーに本拠を置き、地方国家を形成した。 |
▲ ▼ |
|
┃
最 後 の ビ ル マ 王 朝
一度はモン族に滅ぼされたビルマ族であったが、アラウンパヤーにより再度攻勢を強め、とうとうバゴーのモン族国家を滅ぼし、統一国家を形成するまでに至った。そして再度アユタヤ王朝を滅ぼし、再び隆盛を極めた。現在のアユタヤはビルマ族に滅ぼされた跡である。
しかしその歴史は長くは続かなかった。 |
▲ ▼ |
|
┃
独 立 機 運 の 高 ま り
19世紀に入り、世界各地に植民地を広げていたイギリスは、ビルマ王朝との3度の戦争の結果、1886年にミャンマー全土を植民地にする事に成功した。そしてインドの一部として植民地支配下に置かれるようになった。
その後第二次世界大戦が始まると日本とイギリスの戦争に巻き込まれた。やがて3年間の日本の統治の後、ビルマ人の抵抗とイギリス軍による攻勢でマンダレーでは激戦が行われ、王宮は灰となった。
再度イギリスにより、植民地化されたミャンマーであったが、独立の機運は高まっていた。 |
▲ ▼ |
|
┃
ビ ル マ の 誕 生
世界的な植民地の独立の流れは止まりませんでした。独立闘争を続けていたアウンサウンは、ビルマ国軍を掌握し、今度はイギリスとの独立交渉を経て1948年1月4日に独立を達成させた。
ビルマ連邦を成立させ、国の英雄として抜群のリーダーシップを取っていたアウンサウン将軍は、暗殺されてしまい、連邦国家としてスタートしたビルマでは少数民族による反乱が続いた。 |
▲ ▼ |
|
┃
鎖 国 時 代
ビルマ国軍司令官だったネウィンによるクーデターでビルマ式社会主義体制に移り、憲法が停止され、企業の国有化が進んだ。経済的には鎖国政策を取り、全てを国内でまかなう政策を取った。
その後、新憲法公布、社会主義共和国となったが、経済的には他の東南アジアに遅れを取る事となった。また、国内の統制が取れず、反政府勢力、麻薬組織による反乱で、一時は国土の半分ほどを奪われるほどであった。 |
▲ ▼ |
|
┃
現 在 に 続 く
経済の停滞、反政府勢力、民主化勢力による国内の混乱が続き、最後は1988年、国軍のクーデターによりビルマ式社会主義は終わった。
その後、国軍主体のSLORCによる軍事政権となり、国名をビルマからミャンマーに変更。
2011年3月30日、軍事政権のテイン・セイン首相が大統領に就任し新政府が発足。最高決定機関であった国家平和発展評議会(SPDC)は解散し、権限が新政府に移譲された。
現在に続く。
|